アポトーシス2

ゆるやかな細胞の自殺

美しい蝶がいる。もし、蝶が変態するものであるということを知ら
なければ、その美しい姿からあの幼虫時代のイモムシを想像するこ
とは難しいはずだ。現に古代の人々は、両者を同じ生き物だとは考
えていなかったという。

ところが、イモムシのいた場所からある日突然、あの美しい蝶が飛
び立ってくる。その華麗なメタモルフォーゼに人々は聖なるものを
見た。そして、その不可思議から、いつしか蝶に"時を超えるもの"
という神話を与える結果となった。ちなみに、蝶の神話性を巧みに
取り入れた小説に、山田正紀の『チョウたちの時間』という時間理
論を扱った傑作ＳＦがあるが、これは余談(^^ゞ

イモムシからサナギ、そして蝶になるメタモルフォーゼのプロセス
は、アポト－シスによって引き起こされる。幼虫が見せるあの蠕動
(ぜんどう)運動を支えてきた筋肉も、ほとんどがアポトーシスとい
う細胞死を起こす。そればかりではない。死んだ細胞は、サナギに
必要とされる器官を作る細胞たちに"貪食"される。つまり吸収され
て栄養素とされるのだ。この流れは、サナギから蝶への変態でも同
様である。これと同じことは昆虫だけでなく、動物にも起こる。

分かりやすい例は、オタマジャクシからカエルヘの変化である。オ
タマジャクシの甲状腺ホルモンが一定濃度以上になるとカエルヘの
変態が始まる。そしてここでも昆虫の変態のように、尻尾やエラを
はじめとして、もろもろの不要になった器官がプログラム細胞死を
起こして除去され、水中生活から陸上生活に適合した新しい器官に
作りかえられる。この変態の過程で、オタマジャクシとしての身体
の半分以上が排除されてしまうというから驚きである。

ここまで記してきたことで、生命活動の中に仕組まれたプログラム
によって細胞が死ぬアポトーシスというものの輪郭をつかんでいた
だけたと思う。が、アポトーシスと呼ばれる細胞死は、我々が多少
ともイメージすることのできるこれまでの｢細胞死｣という概念と、
いったいどこが違うというのだろうか。

細胞が分裂を繰り返して増殖することは、学校時代に学習した。し
かし、細胞が死ぬとはどういうことなのかということは、学んだ記
憶がない。そのはずである。身近なサイエンスでは、ほとんど扱わ
れてこなかった領域なのである。

だから細胞死についての総説をまとめたサタールは、その論文の中
でこういっている｡｢もし宇宙人が地球に来て生物学の教科書を見た
としたら、地球は死ぬことのない生物で満たされていると信じるに
違いない。なぜなら、わたしたちの教科書には、細胞が成長し、分
裂することは詳しく記述されているけれども、細胞が死にいたる過
程やその意味については、ほとんど何も書いていないからだ｣と。

細胞の死はサイエンスの分野の中でも、ほとんど専門の分野でのみ
扱われてきたものだといえる。そこで扱われてきた細胞の死という
のはもっと壊滅的な死だけだった。つまり損傷を受けた細胞がそれ
に対する修復を試みながら、ついにある限度を超えると崩壊を起こ
してしまうという側面でしか捉えられてこなかったのだ。

こうした細胞の病的な死をネクローシス(壊死)という。それに対し
て、アポトーシスによる細胞死は、生理的な死とも呼ばれる。イモ
ムシやオタマジャクシで起きる細胞死は、決して病気や外傷による
壊滅的な細胞の死ではなく、生物がその生命活動の中で必要とする
生理的な死として起こっているものだからである。

では、アポトーシスとネクローシスとはどう違うのだろうか。その
違いをモデル図としたものが、別掲のイラストである。その形態的
な違いを要約すれば、以下のようになる。

ネクローシスでは、細胞内部に損傷が起こり、その結果修復が不可
能になると細胞が死にはじめる。が、その時、中身が壊れて細胞そ
のものが膨らみ、やがては細胞自身が溶け出して周囲に炎症反応を
引き起こす。これに対しアポトーシスは、生体から何らかの指示を
受けて細胞が断片化してアポトーシス小体というものになるだけで
細胞自身の溶解は起きない。だから炎症反応も引き起こされること
はないのだ。

そして、アポトーシス小体として断片化したものは、先の昆虫の変
態でも述べたように、近隣の細胞に吸収されてしまうのである。ネ
クローシスを激しい死とすれば、アポトーシスは極めて静かな死で
ある。いい方を変えれば、ネクローシスは細胞の他殺であるのに対
し、アポトーシスはいわば細胞のゆるやかな自殺であるといえる。

このアポトーシスが引き起こされるきっかけを、オタマジヤクシの
例では甲状腺ホルモンの濃縮と書いた。しかしこの濃縮を起こさせ
るもともとのプログラムは、実は遺伝子に既に書き込まれている。
これが、アポトーシスをプログラム死とも呼ぶ所以である。

[3]へ続く